MEMORY FRAGMENTS: TOKYO 〈記憶のカケラ〉

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 人は産声をあげてから、人生最期の瞬間に至るまでの間に、どれだけの『森羅万象』に遭遇するのだろうか。一方で、実際に私達の記憶の中に残っている「イメージ」は、どれくらいあるのだろうか? 勿論、人によって記憶力の差は多少あるだろうが、興味の無いことに関しては殆ど記憶していないことが多い。例えば朝のラッシュ時に駅へ向かう時、私とすれ違う数え切れないほどの人の波。彼らの顔が私の脳裏のどこか片隅にでも焼き付けられる事などあるだろうか?

 お正月に浅草で眼にした人力車。こんな色の、こんな形の人力車を見たというおぼろげな記憶は残っていても、乗っていた人の顔や車夫の顔などはっきりと覚えていない。電車や車の中から見える景色はどうだろうか。窓の外を流れる通りすがりの風景から鮮明に脳裏に焼き付くのは、ごく一部の色や形だけだ。つまり、私達は日常的に様々なオブジェクトが「見えて」いるようでも、「見えては」いないのである。そうかと思えば、電車の中で前に座った人がずっと視界に入っていた時や、興味の有る人や光景など、一定の時間を共有し、好奇心を抱く出来事はより鮮明に捉えられることもある。

 人は五感で世界を捉え、成長と共に手に入れた知識や経験を基に、自らの思想や行動に確信を深めていく。「見えて」いるものも例外では無く、それらはごく自然に情報として人の内面に積み上げられていく。実際には「見て」いなくても、である。「見えて」いるのに「見て」いない、それらのイメージの積み重ねは、私達が心の奥底で無意識に恐れている事、つまり、「分かっているつもりなのに、分かっていない」という皮肉な結果に繋がっていくのだ。

 午前0時に古い一日が終わり、新しい一日が始まる。明日という日が今日になる。毎日繰り返される日常で、私の視覚のどこかに入り込みながらも、ほとんどが認識すらされずに忘れられていくイメージ。ランダムかつ曖昧で、それでいて時に鮮明な、ひと言では説明の難しい視覚の記憶。それらをカメラのレンズを通して表現できないか、そう思い立って始めたのが私の新たなテーマ。カメラで、より人間の記憶に近い表現を試みてみた。それが「MEMORY FRAGMENTS: TOKYO〈記憶のカケラ〉」である。

橋村奉臣
MEMORY FRAGMENTS: TOKYOより